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長い、長い間、精霊は寒さに震える中眠り続けていた。
形はどうあれ、この世に剣という依り代をもって覚醒した以上、世界から見た普遍的な情報の一部は知識として得てはいる。
しかし、それはあくまで開いた辞書に記されている文字を眺めるような物。
『自身』で外を見たことがない精霊は、仮に夢を見たとしても、映るとすればあの地獄くらいなものだっただろう。
幸か不幸なのか、映るのは覚めている時とかわらない暗闇だけで、今が起きているのか寝ているのか、自覚は出来ても同じものが続くだけだったが。
そんな状態が、一体いくら程の時が続いたのか。
変わらない暗闇と、増し続ける寒さの中、他に感じるのは鞘の外に出ている自身の柄が時々雨に打たれる感触だった。
このまま、武器としてこの世に目覚めたにもかかわらず、誰にもそう扱われないまま朽ちていくんだと精霊は思った。
しかしある時、精霊はふと、見るはずの無い夢を見始めた。
最初、光景が酷く霞んでいた。
それでも『見て』、『感じられた』。
嗅いだことの無い風の匂い。
感じたことの無い陽の光。
見たことが無い草原の中続いていく道。
その中を歩いている。
なんで、こんなものが見えるのか、わからない。
だが何故か、精霊にはこの光景と空気に「懐かしい」という言葉が思い浮かんでいた。
まるで、霧が晴れていくかのようにその景色が鮮明になっていき、気付いた。
精霊の意思に関係なく進んでいく光景、それは精霊のものではない「誰か」の見ているのであろう光景である事に。
それでも、精霊は嬉しかった。
しばらく、この光景を見ているのであろう者は歩き続け、小さな丘に差し掛かった時立ち止まった。
ゆるい上り坂の先、頂上付近にある岩の上へと誰かが腰かけているのが見えた。
見覚えがない人だったのか、首をかしげ、精霊自身の声ではない、少女の声でうーん、としばらく唸ったあと、そのまま丘を上って行った。
その声と、時折みえる手足、そして視線の高さから、この光景を見ているのが少女だと精霊は思った。
逆光になっていてよく見えなかったのだが、近づくとその背から風で揺れているマントは紅く、その髪は黒に限りなく近い青をしていた。
岩の傍に通りかかった時、また足をとめてその人を眺める。
それは若い男で、マントの内は黒い服装に革の鎧を着用という軽装。
他に荷物は無いが、飾りのないその身程ありそうな長い剣を抱え、眠っているのか目を閉じていた。
冒険者だろうかと精霊は思ったが、それにしては何故荷物も持っていないのだろうという疑問が浮かんだ。
もう少し見てみたいとも思ったが、その意思に関係なく、この光景を見ているのであろう者は、男を起こすのも悪いと思ったのかそろり、そろりと足音を立てないようにしてゆっくりと足を運んでいく。
そして通り過ぎようとした時。
「待て」
斜め後ろから聞こえた言葉にびくっ!と全身が固まり、胸のあたりがばくんとなったように感じた。
振り返ると、先ほどの男がゆっくりとその目を開けた。
その目はその髪色に近い、青色をしていた。
少女にとってその目の色が珍しかったのか、そこに焦点を合わせたまま、わぁ、という声を上げている。
男はそれを気にしていないのか、コキコキ、と肩を鳴らしもう一度目を向けてくる。
「この先に、何か用事か?」
男がこちらの後ろのほうへと指をさし、それに視線がついていくと、その先、丘を下った先は森となっていた。
「うん!森の入り口あたりにおいしいきのみがあって、とってきてパンにしてもらうの!」
「そうか・・・なるほど、こんな子ども一人が平然と足を運ぶくらい、『事』が起こるまでは安全な森、か」
男がこちらから目を離し、森の方を見ながら腰を上げる。
何か言おうとして思いとどまったのか、開きかけた口を閉じ、何か悩んでいるようだった。
「・・・楽しみにしているところ悪いけど、そこから先には行かないほうがいいぞ」
そう口にし、剣を右手に携えたまま男がこちらへと歩み寄り、目線を合わせるようにかがみ右肩へと手を置いた。
「え、なんで?」
「危ないからだ」
精霊は男の言葉に疑念を持っていた。
察するに、この光景を見ている少女はこの近隣の者。
対して目の前にいるこの男は、このあたりの人間じゃない。
それがどうして、あの森が危ないと言うのだろうか。
少女も不思議に思ったのか、首を傾げている。
ふと、男が少女から手を離し、森の方へと顔を向けた。
「はぁ・・・言ってたら早速来たか」
溜息をはきつつ、立ち上がった男にあわせ視線を向けた瞬間、全身から寒気を感じた。
視線の先、森の入り口から「黒い何か」が歩いてきていた。
精霊にとっても、あれを具体的に何と呼べばいいのかわからない。
あえていえば、全身から無数の針を生やし、顔の中心に紅い一つ目をした狼に似た獣。
「ひっ!な、なにあれ・・・」
全身ががくがくと震えており、少女の感じている恐怖が精霊にも伝わってくる程だった。
「死にたくなかったら、そこから下手に動くなよ」
そう言って、右手に携えていた剣を握り直し、右下へと刃を引き構える男。
男と少女に気づいた獣が、咆哮を上げ、二人に向けて走り出す。
その直後、獣の背に生えていた無数の針が飛び出し、丘の上である二人の頭上より高いところから弧を描いて降り注ごうとする。
しかし、その針が向かうのは男ではなかった。
「っあ・・・」
咄嗟の事に体は動かず、そんな言葉にならないものしか口になっていなかった。
その針は一本一本が太く、刺されば無事ではすまないのは容易に想像がつく。
怖いという思いで目を閉じた。
それから数秒、いつまでたっても来ない痛みに、少女は目を恐る恐る目を開ける。
その視界は、「紅」に染まっていた。
「おい、怪我はしてないか」
声に視線を上げる少女。
そして映ったその光景に、精霊は目を疑った。
いつの間にか少女の前に立っていた男。
その体にはあの針が何本も突き刺さっていた。
急所を外すよう、いくらかはその手に持つ剣で防いだようだが、あれだけの針の数を防ぎきれるはずもない。
「お、お兄さ・・・ん」
「心配すんな」
そう言いつつ、左肩に刺さっていた針を強引に引き抜き、ポキリと音を立てへし折る。
「この感じ・・・毒入りか。ったく、こういう時には『今の体』に感謝するしかないな・・・癪だが」
針が突き刺さっているのに平然と立っている男に驚いたのか、獣は足を止め、低い唸りを上げている。
精霊は、何が何かわからなかった。
突然現れた獣。
毒入りなんて自分で言っておいて平然としている男。
そんな精霊の事等知らないであろう男はすぅ、と左手をその獣に向けた。
「おい・・・『くだらない真似』をよくもやってくれたな・・・!」
その言葉の瞬間、いつの間にか、左手に紅いガントレットがはめられていて、何か力を籠めるように構える。
そして、それを向かってきている獣へと突き出すが、何も起こらない。
それを感じたのか、獣は再び、今度は男に向かって来る。
「ちっ・・・まだ『無宣言発動化』は無理か」
もう一度、先ほどと同じように構える男。
「アイ・シュート!!」
言葉と共に突き出した左手。
その手へと青い光が瞬時に集い、青く透き通り鋭く形作られた氷の塊が打ち出され、獣の背を貫いた。
それが致命的だったのか、獣は地に倒れ、黒い霧となって霧散していった。
精霊は驚愕した。
獣の消滅もそうだが、男の魔法に対してもだ。
精霊の知る魔法は、発動の際一度マナの塊としてチャージし、自身の周囲、もしくは杖等の武具に留めておき、それから使用という工程が必要である。
しかし、男の発動した魔法は、その魔法名なのか口にした瞬間、射出までの行為すべてが一つの流れとして行われていた。
この、今見えている光景は、自分の知る世界の物ではないのだろうか。精霊はそう感じていた。
「夢」に対してそう思うのも、変な話なのだが。
「『自分の』スキルを使っていいのはありがたいけど、精度もまだ甘いな・・・頭を狙ったのに」
そう言って溜息をつき、右手に握っていた剣を肩に担ぐ男。
男の姿に、精霊は惹かれる一方、この状況に青ざめてもいた。
理由はわからないが、男はあのような獣がいることを知っていた。
だから少女が森に向かうのを止め、助けてくれた。
もし、男が少女を呼び止めず、そのまま向かっていたとしたら・・・
そう思った時、少女が顔面から男に飛びつき腰にしがみついた。
「うあ?!ちょ・・・何する・・・」
突然の事に男は驚き、少女を引きはがそうとするが、その手を止めた。
「お、おに”い・・・ざん!ありが・・どぉ!!」
頬を伝う涙の感触と、鼻の違和感で精霊もその理由を感じた。
少女も、分かっていた。
あのまま行けばどうなっていたか。
そして、飛んでくる針から身を挺して守ってくれた事を。
「・・・もう、大丈夫だから・・・」
ぽん、と頭に置かれた手。
その時、精霊はその手から感じたものに、はじめて気が付いた。
あたたかい、と。
「そんなにこわかったか・・・?」
中々泣き止まない少女を心配そうな顔で見ながら、岩に腰かけまだ刺さっていた針を抜いていく男。
左手につけられていた紅いガントレットは、いつの間にか消えていた。
しかし精霊の目から見ても、絶対あの刺さっている針は痛そうに見えるし、事実、男はなるべく声や表情に出さないように我慢しているらしいが痛い様子である。
「も・・・だいじょ・・・ぶ」
もっていたハンカチで鼻をかみつつ、男が体から抜いた針へ目を向ける。
その黒い針の表面は、色に紛れて見にくいが赤い血に濡れつつ、鋭利な先からは毒々しい黒に近い紫の液体がにじみ出ていた。
「・・・その針絶対触んなよ?」
「わ、わかった・・・」
男に言われるまでもなく、どう見ても危ない物である。
精霊は再度、なんでこの男は平気なんだろうかと冷や汗をかく気分だった。
しばらくして、全部の針を抜き終わった男の隣に、少女は腰かけていた。
「お兄さん、さっきは本当にありがと」
「気にすんな・・・それより分かっただろ?もうあの森は安全じゃない。これからは近づいたら駄目だ」
「うん・・・わかった」
また頭に手を乗せ、撫でてくる男。
でもそれは精霊にとっても悪い気はしなかった。
この少女にとっても、多分・・・いや寧ろこの感覚は・・・
「そろそろ帰った方がいいんじゃないか?親も心配するだろ」
「あ・・・」
男の言葉に、少女ははっとした様子で声を上げた。
この少女がいつもこの森の入り口あたりまで来るのを親が知っているとしても、あまり遅くなれば流石に心配されるだろう。
精霊が見ている限りでも、それなりに時間がたっているように感じられる。
岩から降りて、来た道を戻ろうとして振り返る。
「お兄さんは?」
「俺は・・・しばらくここに居続けないといけないから」
背を向けたままの男はそう言って、傍らに置いていた剣を、はじめて見かけた時のように抱える。
「村は近くだよ?お兄さんも怪我してるし・・・」
「・・・『事』が終わるまで、ここから離れられない。俺の事はいいから帰るんだ」
「事」・・・先ほどの獣のようなものに関連する何かが、まだあるというのだろうか。
もしかしたら、この男、この少女が訪れるより何日も前からこうしていたのではないだろうか。
たった一人で。
そう思うと、男の背が、何か寂しげに思えた。
「・・・ね、また来てもいい?」
少女の言葉に、男は上半身をひねって振り返える。
「おい・・・さっきの話もう忘れたのか?」
ジト目で見てくる男。
あれだけ怖い目にあってまた来るつもりなのかと思っているのだろう。
確かに、精霊から見てもあんな獣、いや化け物のいる森は怖い。
でも。
「うん覚えてるよ!でもここまでならいいでしょ?」
まるで、精霊の気持ちを代弁してくれているかのように錯覚する。
「ここまでって・・・だから近づくなと」
「お兄さんの言いつけ通り『森には』近づかないもーん。もしもの時もお兄さんの言うとおりにするから!」
「あのな・・・」
「けってーい!あたしは『ナコ』!お兄さんのお名前は?」
「問答無用かよ・・・はぁ、聞くつもりも言うつもりもなかったがしかたないか・・・俺は――――」
男の言葉に、まるでノイズが入るような音にかき消され、景色は暗転した。
それからしばらくの時間をおいて、「ナコ」の夢が途切れ途切れに映し出されていった。
まるで、毎日のようにナコはあの丘に向かっているように思える。
ある時は、少女が持ってきたのであろうバスケットに入っていたパンを、あの岩の上で二人で食べた。
ある時は、寝ていた男を驚かそうと目の前で顔を覗きこもうとしたら、目をつむったままの男にこつんと小突かれた。
ある時は、森の入り口にあの化け物がまた姿を現し悲鳴を上げかけたら、今度は化け物が駆け出す前に氷塊に貫かれ、横を見ると男が顔をしかめていた。
ある時は、雨の中会いに行ったらずぶ濡れの男に、こんな日まで来るんじゃない!風邪ひくだろ!と怒られた。
自分の事じゃないのは精霊自身にも分かっている。
でも、その夢を通じてみる、名前の分からない男と一緒にいる時間に、精霊は幸せを感じていた。
同時に、とても心配になっていた。
ナコがそこに向かう時、男はずっと、そこにいる。
手持ちの荷物も、無いはずなのに。
そして、夢で会う度、その体には傷が増えていっていた。
次第に大きい物が。
ある時、ナコの隣に座っていた男は何か迷っていたようだが、ふと意を決したように顔を上げ、ぽんと頭に手を置いてきた。
「明日はここに来るな・・・」
「え、なんで?」
男の言葉に、精霊も、毎日のように通ってきていたナコも、疑問の言葉を口にしていた。
なるべく平静を装っているようだが、ずっと見てきたからわかる。
どうも、男の様子がおかしい。
「理由は、言えない・・・」
何かを口にしてしまう事を恐れ、一言一言選んでいるようだった。
「お願いだ。明日は一日、家からは出ずに家族と一緒にいてくれ」
男自身は気付いていないかもしれないが、頭の上に乗せられたその手が、かすかにふるえているのを感じた。
「うん・・・わかった・・・」
一体、何があったというのだろうか。
そう疑問に思っても、男の様子に、そう答えるしかなかった。
「それじゃまた明後日ね、『お兄ちゃん』」
日が沈みかける頃、ナコからの突然の呼び方が変わった事に男は慌て思わず右手の剣を落としかける。
「お兄ちゃんっておい・・・いきなりなんでそう呼ぶんだ?」
「あたしに兄弟はいないけど、もしいたらお兄ちゃんみたいな人がいいもん。優しいし!」
「優しいって・・・俺は別に・・・」
ナコの言葉に男は照れ臭かったのか頬をかいた。
「お兄ちゃん顔まっかー!」
「う、うるさいな・・・もう暗くなるから子どもは早く帰れ」
「うん、またー!」
男のその表情が可笑しかったのか、くすくす笑いながら村の方へと丘を下っていくナコ。
「ったく・・・しかし『明後日』・・・か」
―どちらにしても俺はもう・・・
そんな声が聞こえて、ナコは思わず足を止めた。
振り返った先、男は腰に手を当て、これまで見たことがない、優しい笑みを浮かべていた。
―ありがとうな、ナコ。『また』な
そこでまたぷつりと、景色が暗転した。
幸せな夢は、ここまでだった。
しばらくして次に映ったのは、先程までのものが嘘だったかのような凄惨なものだった。
ここは精霊の、剣として形を得た瞬間から持っている知識にあるどの村へも該当しない。
だが分かる。
ここは、何度も夢に移っていた、あの丘近くにある「ナコの住んでいた村」だ。
その村が火に包まれていた。
そして気付いた。
精霊が今見ているこの夢の光景。
それは今までのような「ナコ」からの視点ではなかった。
まるで、宙に浮いて見下ろしているかのような。
精霊は戸惑った。
一体、何があったというのだろうか。
村の中のあちこちには、ナコから見ていて知っている人「だった」ものが、あたりに倒れていた。
動いているのは、あの森の入り口で見かけた、「化け物」の群れ・・・
数えきれない程の数に、精霊は震えた。
まさか、あの森から集団で襲ってきたというのだろうか。
なら、あの丘の上にいた、あの人は。
―アイ・・・シュート・・・!
精霊があの笑顔を思い浮かべた刹那、その化け物の群れへと飛来する多数の氷塊。
化け物が、次々と霧散していく。
そしてその場へと姿を現した姿に、精霊は目を見開いた。
半ばで刀身が折れている剣を支えに、全身にあの針が突き刺さり、血を流し、足をひきずるように歩いている男。
何度もつまづき、倒れても、また起き上がる。
ひっきりなしにあたりを見回していた。
何かを探しているようだ。
そしてとある家の前に差し掛かった瞬間、その家の壁が内側から吹き飛び、飛来するその瓦礫に体を打ち付けられ男は倒れる。
頭から流れる血に、片目が覆われる中、壊れた家の中からのそり、とそれは出てきた。
成人男性の倍近くもあるだろう、巨躯の「一つ目の鬼」。
それを前に、どう見ても限界を超えているであろう、ガクガクと震えるその体を剣を支えに立ち上がる男。
そして、剣を構えようとするが、目に映ったそれに男は立ち尽くした。
鬼、まるでそれを見ろといわんばかりに開けた口からのぞく、長く黒いツインテールの髪。
その頭をつかみ、口から引きずり出す。
少女の口からは血が流れ、体はピクリとも動かない。
それを、まるで玩具のように揺さぶる鬼。
挑発だった。
この村をペットと自分の餌場、しいては遊び場にしようとして、最初に邪魔した人間に対して。
お前の邪魔は、無意味だったと。
「き、さ、まあああああああああああ!!!!!!!」
ガントレットのはめられている左手を突き出し、氷塊をうちだすも、鬼は手につまんでいたものを放り投げ、その身でそのまま受け止める。
氷塊はその体に突き刺さらず、砕け散ってしまう。
にたり、と余裕の笑みを浮かべている鬼。
既に、これは全くの脅威にならないと、鬼は理解していた。
瓦礫の山と化した建物から、柱だった木材をずるりと抜き出し、まともに動けないであろう男の頭上から振り下ろそうとした。
景色にノイズが走り、次に映し出された時。
鬼の目にはあの折れた剣が突き刺さっており、絶叫のまま、村の外へと向かって走り去っていった。
主の叫びに、村に散っていた化け物達も反応し、引き上げ、村には燃え盛る火の音が残るのみだった。
だらり、とさがった右手は動かせず、支えになるものも失った体はくずれうつ伏せに倒れる男。
目も焦点があっていないかのようで、息も絶え絶えだったが、それでもなんとか首を動かし、探す。
しばらくたって、そのみつけたものへ、左腕だけで体を引きずり、近づいていく。
そしてたどり着き、震える左手で抱き寄せた。
精霊も、気付いていた。
それは、これまでずっとその目を通じて夢で見ていた少女、ナコだった。
男が、かすれる声で呼びかけ続けるも、ナコはピクリとも動かない。
彼自身も、分かってはいるのだろう。
だが、納得できない。したくないと言いたいかのごとく、続けていた。
空を覆いつくす暗雲から、ゴロゴロという音が鳴り始めても、男は抱き寄せるその手を離さなかった。
走る光。
それに顔を上げ、空を睨みつける男。
「ああ・・・そうかよ・・・本当なら『あの時』死んでたからって、『ここまでやって』殺すかよ!!!」
精霊には、その言葉の意味がわからない。
だが、男の目に宿っているのは尋常ではない程の憎しみのようなものだった。
降り始める雨。
男は力を振り絞るかのように上体を起こして座り、ナコを抱き寄せた。
「また・・・明後日・・・『また』って言ってくれたのに・・・」
もう、あの笑みを見せてくれることの無いその顔に、ぽつり、ぽつりと雫が落ち濡らしていく。
―俺は・・・優しくなんてない・・・俺は・・・俺は・・・嘘つきだ・・・
それは村中に響く、言葉にならない叫びだった。
強まっていく雨。
その音は、男の叫びさえかき消し、まるであざ笑っているかのようだった。
景色が暗転し、景色がかわった。
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